SEAヒストリー研究会~日本におけるSEAを読み解く 第1回実施報告
【テーマ】 マッピング(前半)戦後日本の美術運動・美術団体をたどる(1940~50年代)
【プレゼンター】 工藤安代(アート&ソサイエティ研究センター代表)
【日 時】 2016年2月26日(金)18:30-20:30
【会 場】 アーツ千代田3331 2階 会議室 (東京都千代田区外神田6丁目11-14 )
【内 容】
1946年から1950年代までの日本における美術運動/美術団体を時系列でたどり、戦後の日本美術が社会状況とどのように関係していたかを考察。今回は特に、アンデパンダン展について、その成り立ちや内容が議論の中心となり、いくつかの課題を次回に持ち越した。
《キーワード》
- 日本アンデパンダン展
- 前衛美術会
- 職美協(全日本職場美術協議会)
- 読売アンデパンダン展
《疑問点・問題提起》
- 日本アンデパンダン展と読売アンデパンダン展は内容にどのような違いがあったか。
- 読売アンデパンダン展は、具体的にはどのようにフランスの「サロン・デ・アンデパンダン」を倣ったのか。
- (読売)新聞社がアンデパンダン展を主催した背景とは何か。
- 戦後、国内の作家はどのような手段で海外の動向から影響を受けたのか。
- 前衛美術会が異議を唱えたという社会主義的リアリズムとは何か。同様に新しく目指したシュルレアリスムとは何か。
- 国内のSEAの萌芽を探るためには、戦後の動向からスタートするのは不適切ではないか。
第1回SEAヒストリー研究会に参加して
高嶋直人
私はこの研究会に、アート&ソサイエティ研究センターのインターンとして資料準備の業務を兼ねて参加している。第1回目の今回は、1946年〜50年代における「美術」や「社会」の変化をマッピングするなか、さまざまな立場で美術と関係を持つ参加者の間で、当時の動向についての意見や疑問が活発に交換された。
そもそもSEAとはソーシャリー・エンゲイジド・アート(Socially Engaged Art)の略語で、何らかの前向きな社会変革を目指すアート活動/表現を意味し、現在世界的な潮流となっている。ただし、この動きを牽引している欧米でもまだ一般的な定義付けはされておらず、日本の状況を考えるとき、まずは社会と美術の関係性の歴史を整理することから始めなければならないということがこの研究会の背景にある。率直に言えば、私はこの潮流が美術と市民のあいだに何か新しい関係性を作り出してくれるのではないかと期待している。
現在、まちの具体的な歴史を背景にアートを媒介として活動を行う市民は存在するが、多くの場合がボランティアというあいまいな存在に甘んじている現状がある。例えば、私が所属している立川市のボランティア団体ファーレ倶楽部は、米軍基地跡地の再開発によって誕生した複合型都市空間「ファーレ立川」に設置されたパブリックアートを、基地問題(砂川闘争)等の歴史を背景に市民が主体となって守り、多くの人に知ってもらう活動を続けている。ボランティアとして軽視されがちだが、このような地域や歴史に根付いたアートと結びついた市民活動が、国内におけるSEAのヒントになると考えている。
この研究会で社会と美術の関係性の歴史を読み解くという行為は、ファーレ立川における砂川闘争のように、アートを通じた市民活動のモチベーションになりうる事象を丁寧にひたすら掘り起こしていく側面がある。その掘り起こしの結果として、市民の生活を左右するさまざまな社会問題や地域課題が明らかになり、前向きな社会変革へのモチベーションが高まることで、現代における日本のSEAの展開につながってほしい。
研究会の内容に戻れば、第1回のキーワードとして「日本アンデパンダン展」「前衛美術会」「職美協」「読売アンデパンダン展」などが取り上げられた。第15回読売アンデパンダン展について言えば、日比谷公園会場における作品の締め出しについてや、新聞社の展覧会主催背景など、参加者各々の知識を共有し、それらのキーワードについて理解を深められた内容だった。
「日本アンデパンダン展」や「読売アンデパンダン展」は、反芸術やハイレッド・センターといった60年代の前衛的な動向に影響を及ぼしたものとしても取り上げられる。戦後社会の芸術表現については第二次世界大戦直後のGHQによる抑圧的な文化政策などの反動が社会背景にあるとされているが、その背景と美術の表現はともに変化していった。具体的に言えば1949年の「日本アンデパンダン展」に出品され、戦後の国民の心情をうずくまる人物像にして描いた鶴岡政男の《重い手》をはじめとする戦後の閉塞感や絶望感を描く作品は、50年代には、社会に起きた歴史的事件を記録的に描くルポルタージュ絵画として継承されていく。当時の山梨県曙村で起きた地主と農民との争いを描いた1953年の山下菊二の《あけぼの村物語》が代表である。戦後当時は現代で浸透しているような作家が市民とともに作品を表現していくという潮流はなく、ルポルタージュ絵画への変化は、戦後社会の閉塞感のようなイメージの表現から、社会的事実の記録という形で美術と大衆との距離を縮めることが考え出されたものであり、現代における市民参加型アートの先駆けだったのではないか。
今回のマッピングによってわずか5年のうちで二つの作品の間に社会的主題の変化があったことがわかった。次回のSEAヒストリー研究会では引き続き1950年代後半のマッピングが行われるが、当時は朝日新聞社主催の「世界・今日の美術」展の開催やM・タピエ、J・マチウの来日などによる海外からの情報輸入が盛んであった。その中で以上のような社会的主題を対象にしてきた作家の制作意欲はなんらかの変化があったのだろうか。社会状況と美術表現の変遷をどちらかに偏ることなく考察していきたい。