SEAヒストリー研究会~日本におけるSEAを読み解く 第4回実施報告

【テーマ】    1960年代:反芸術

【プレゼンター】 工藤安代(A&S)、嘉藤笑子(NICA)

【日 時】    2016年5月20日(金)18:30-20:30

【会 場】    アーツ千代田3331 B1階 104室 (東京都千代田区外神田6丁目11-14 )

【内 容】

1960年代におけるネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ゼロ次元、ハイレッド・センターらを中心に、読売アンデパンダン展の終了と同時期に発生した芸術運動に注目しながら、その中から現代のSEAにつながる要素を議論した。中でもハイレッド・センターの活動が芸術性と社会性を併せ持つとして取り上げられた。

《キーワード》

  • ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ
  • ゼロ次元
  • ハイレッド・センター
  • 反芸術論争
  • 直接行動
  • 読売アンデパンダン展

第4回SEAヒストリー研究会に参加して

反芸術のソーシャル・チェンジ

高嶋直人(アート&ソサイエティ研究センターインターン、ファーレ倶楽部会員)

DSCN5641第4回SEAヒストリー研究会は、第1回、第2回に引き続いて1960年代の美術史的観点から、現代のSEAにつながる歴史的要素を探すことを目的とした。議論は、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ、ゼロ次元、ハイレッド・センターらを中心とした当時の美術運動や、それらの作品が、東京都美術館の読売アンデパンダン展が終了した時代背景のもとで、いかに美術表現の領域を拡張したかに着目した。日本の現代社会においてソーシャル・チェンジを目指すSEAの在り方を模索するために、1960年代に美術館から離れて新たに表現の場を求めていったアーティストの行為と作品を検証することは有意義である。彼らはその状況で社会問題と自身の活動をどのように関連付けていたのだろうか。

つまり今回の研究会は、美術の伝統的価値を覆して「反芸術」と呼ばれた上記のグループ、また読売アンデパンダン展終了後に発生した前衛グループらがそれぞれ選んだ表現方法を改めて比較し、個々に展開した表現手段の中に社会的な問題意識を探り出す意図があった。また、東野芳明と宮川淳の反芸術論争をはじめ、読売アンデパンダン展に対する瀧口修造のコメントや、ハイレッド・センターに対する山田諭の批評などのように、具体的に美術の領域や美術と社会との関係性に言及した評論家の発言にも注視した。さらに、モデレーターが3つのグループの活動を写真図版とともにそれぞれの評論と照らし合わせながら紹介し、後半には時代背景として重要な読売アンデパンダン展の終了に議論の焦点を当てた。

使用した資料の中でも、名古屋市美術館学芸員を務める山田諭の評論「ハイレッド・センターを歴史化する」(『美術フォーラム21』)は、日本におけるSEAを考える上で参考になった。山田は、「直接行動」という言語を暴力的な抗議手段の意味を持つ政治用語と認識した上で、ハイレッド・センターの活動を芸術的な側面と社会的な側面を併せ持つ芸術的な直接行動と捉えた。

前回の研究会で指摘された、現行のSEAの3つの特徴(①ソーシャル・チェンジを志向していること、②アートと認められる表現活動であること、③ソーシャル・インタラクションがあること)と彼らの直接行動を照らしわせれば、重要な時代背景である読売アンデパンダン展の終了を含めて、十分に国内固有のSEAの歴史的萌芽だと解釈できるのではないか。高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之がハイレッド・センターを結成したのは1963年であり、グループとしては読売アンデパンダン展最終回に出品した。既に1960年の同展において「陳列作品規格基準要項」(不快音、異臭、刃物など、観客や美術館に対し何らかの危険性を備え持つ作品を禁止する6項目)が発表されており、彼らの出品作品が反芸術なものとして「美術展」という枠を超え、結果として同展の終了を加速させた。

美術館の限界を超克し、さらに作品の価値を日常の中に転化させたハイレッド・センターの芸術的側面については割愛するが、山田が合わせて述べる社会的側面の内容は①ソーシャル・チェンジの志向と言い換えることが可能である。山田は彼らの直接行動における社会的側面の背景に、60年安保闘争の終焉から、国民所得倍増計画によって市民の意識が高度経済成長の潮流に飲み込まれ、日々の生活に埋没していった事実があると指摘する。つまり、巨大な資本主義社会の到来によって、経済活動という日常の中に埋没していく人々にハイレッド・センターは働きかけをしたと述べている。その代表的な事例が《首都圏清掃整理促進運動》だろう。彼らは公共空間を自分の部屋のように清掃する行為によってその微妙な違和感を鑑賞者に体感させ、平穏な日常の中で非日常的な何かを呼び起こす狙いがあった。市民による経済活動がごく一般的な現代においてはソーシャル・チェンジに不適切なテーマであるかもしれないが、60年安保という政治的エネルギーからの急転換を強いられた当時の青年層の中には、不安に駆りたてられた人たちも多数存在したと推測できる。ハイレッド・センターの直接行動は廃品、日用品を使用することにより美術館の規制を超克しただけではなく、日常性に溢れた高松の「紐」や赤瀬川の「紙幣」、中西の「洗濯挟」がそのような市民に対し社会的な問題意識を投げかけることに挑んだ。

以上のことから、ハイレッド・センターが日常という表現の場の中に社会的な問題意識を感じていたことは間違いないだろう。これらの具体的な事例がSEAそのものであったかと再度問われれば、上記③ソーシャル・インタラクションとしての要素が希薄である。しかし、これはハイレッド・センターがその直接行動によって公共空間に違和感や不審感を生むことを重視していたために、直接的に人々との関係を作ったり、日常的な交流をしたりしなかったと推測できる。その違和感や不審感とは、国民所得倍増計画を始まりとした急激で意図的な社会の転換にさえも、人々が埋没し得る社会問題に欠かせないと判断した故の実験的手法だったのだ。

《疑問点・問題提起》

  • 読売アンデパンダン展のような展示は現代において必要か。(その場合どこで何を展示するか)
  • 現代で読売アンデパンダン展のような展示は難しいのではないか。集客には共感を前に出さなければいけない風潮がある。
  • 読売アンデパンダン展はなぜ若手作家の公募を15回も続けられたのか。→ 読売グループとして、球団の活躍と広告の充実のためか。
  • ハイレッド・センターの直接行動は社会にエンゲイジしたと言えるか。

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