全米に広がる「NEA(全米芸術基金)を救おう!」運動
米国のトランプ政権は、3月15日に、2018会計年度の予算案の概要を発表した。軍事費や国土安全保障費を増やす一方、予想通り、芸術文化関連の予算は不要とみなされ、全米芸術基金(NEA)と全米人文科学基金(NEH)を、予算削減どころか廃止しようとしている。現在この2つの政府機関の予算は合わせて3億ドルほどで、今年度の連邦予算の0.01%にも満たないのだから、財政的な意味というより、政権の優先順位を明らかにするマニフェストと言えよう。
日本の文化庁に近い、非営利の芸術活動を支援する政府機関NEA(National Endowments for the Arts)は、これまでも、神聖を冒涜する作品や公序良俗に反する作品に助成金を出しているなどと、保守派の政治家から攻撃を受け、しばしば存亡の危機に陥ってきた。しかしなんとか乗り越えてきたのだが、今回は、大統領、上院・下院全てを共和党が握っている。
この危機に直面して、「Save the NEA」を合い言葉に、全米で議論が盛り上がっている。特に、NEAのブロックグラントに頼っている地方のアート組織にとって、NEAの消滅は大問題なのだ。アートはエリートの道楽ではなく、全ての人間にとってなくてはならないものである、アートは経済発展に寄与する、アートは雇用を生む、アートは子どもの教育にプラスになる、アートは心の病を癒やす、軍事費を増やす一方退役軍人のためのアートプログラムを実施するNEAを廃止するのはおかしい等々、アートに対する公的支援を正当化する根拠をはじめ、NEA設立の経緯やこれまでの歩みなどが、新聞など一般向けのメディアでさかんに報道されており、この組織の存在意義を広く人々に知らしめる効果を生んでいると思う。
具体的なアクションも起こっている。この事態に黙っていられないと立ち上がったオペラ歌手、ジョナサン・エスタブルックスは、世論の支持を得るために、Change.orgで署名活動を始めた。すると5万人にのぼる賛同者が集まった。この反響に勇気づけられた彼は、アーティストを集めて「芸術への賛歌」をレコーディングしよう!と、Change.orgやFractured Atlasを通じてファンドレイジングを行い、仲間に声を掛け、協力の輪を広げていった。
こうして、ブロードウェイのミュージカル俳優を中心に多くの歌い手や演奏家が集い、ビートルズの「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」をカバーしたキャンペーン・ソングをニューヨークのアバター・スタジオでレコーディング。USAフォー・アフリカの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を思わせるセッションで、そのグループ名も、なんとアーティスツ・フォー・ジ・アーツという。この歌のダウンロードやCD販売の収益金は、アート・アドボカシー団体アメリカンズ・フォー・ジ・アーツに寄付され、Save the NEAキャンペーンに使われるという。
(秋葉美知子)
バーチャル・シンクタンクCreatequity が「アーツリサーチ賞」を創設
世界では、毎年、政府、財団、大学などが膨大な時間と資金をアート関する調査研究に投じている。それらの成果は、アート団体の事業計画や政府の文化政策、さらには広く社会問題の解決に寄与する知見を含んでいるはずだ。しかし、政策立案者をはじめ、関心を持ってほしい人たちに広く知られることなく、書棚や電子ファイルに埋もれていることが多いのが現状――そんな問題意識から、バーチャル・シンクタンクCreatequityは、世界で発表されたアートに関する調査研究を集め、気になる結果を毎月ウェブサイトで紹介している。
Createquity Arts Research Prizeは、この取り組みをさらに発展させ、優れた調査研究に賞を贈ろうというもので、現在ノミネーションを募集中だ。2016年に英語で発表された「アートについて、あるいはアート・オーディエンスを念頭において書かれた調査研究」を幅広く、世界各国から受け付けるが、特定のアーティストやアート作品についての研究や批評はNGだという。
4月10日に応募を締め切り、内部スタッフでの第一次審査、外部審査員による第二次審査を経て、6月までに受賞者を発表する予定という。その賞金はわずか500ドル。調査研究の支援ではなく成果の利用促進がこの賞のねらいだからか。ともかく、受賞研究の発表が楽しみだ。
(秋葉美知子)
論考:ヒストリオグラファーとしてのアーティスト?
ヒストリオグラファーとしてのアーティスト?
Art of Remembering in the Age of Forgetting, Art of Listening in the Age of Talking, and Art of Imagination in the Age of Totalitarianism
山本浩貴(ロンドン芸術大学TrAIN研究センター博士課程)
昨年の話になるが2016年10月16日に岡崎のMasayoshi Suzuki Galleryで行われたレクチャー・トーク「修史家(ヒストリオグラファー)としてのアーティスト」を藤井光氏、山田健二氏、横谷奈歩氏と協同で行なった。このトーク・イベントは、ある学会での発表のために執筆した同タイトルの論文『修史家(ヒストリオグラファー)としてのアーティスト』の中で言及したアーティストたちと共に、より実際的な活動のディテールの話やアーティスト同士の議論を深める意図であいちトリエンナーレ2016の関連イベントとして行われた。
今後それぞれのアーティストからの寄稿文や後日談の一部もこのブログで紹介されるようであるが、今回は先ずトークの冒頭でのイントロダクションとして用意した短い文章に、若干の修正を加えた論考を紹介したい。思いついたことを思いついたままに書き並べてみた文章なので、フォーマルな形式の論文とは異なり、論理の飛躍やdisconnectionが散見されるが、そもそも人間は論理によってのみできているわけではなく、思考の流れのようなものをそのまま示すのもありだと思い、あえてほとんど修正は加えていない。
「忘却」することが例外というよりはむしろと規範となった時代において「記憶」すること、あるいは「話す」ことが自らを世界に参入させるほとんど唯一の方法となった時代において「聞く」ことはいかにして可能となるだろうか?「忘却」の過剰に抗して「記憶」の意義を、「話すこと」の飽和に対して「聞くこと」の価値を再考することにアートはどのようなかたちで関わることができるだろうか?
エルネスト・ルナンの言う通り、忘却が「国家(あるいは国民)」という装置を創出するための「本質的因子」であったとすれば、グローバリゼーションとマルチ・カルチュラリゼーションがとどまるところを知らない現在において求められているものは、さらなる忘却の積み重ねではなく、別のかたちの記憶の仕方であろう。すなわち、国民国家という、ベネディクト・アンダーソン的な「想像の共同体」にまつわる語りとは異なる、それを作り上げる過程で生まれた無数の忘却を掬いあげることのできる、別の可能な記憶の仕方、すなわち物語(narrative)が求められている。
声の大きな者が(良かれ悪しかれ)社会的なうねりを作り出す一方で、抑圧された者が発する声なき声はより大きな声にかき消されてしまう。「耳を傾ける技術」(Back, 2007)もまた必要とされている。しかし「聞く」ことを早急に「話す」ことと結びつけることには注意が必要である。それは誰か「のために/代わって話す(speak for)」ことを装って、自らの考えを述べているにすぎないことが往々にしてあるからだ。現代アートのバズワードでもある、「表象(representation)」という言葉の2つの異なる意味をめぐる論考の中で、ガヤトリ・スピヴァクは、誰かのために/に代わって語ることができるという「特権」が反対に何を不可能にしているかを考えることの必要性を論じている。
Furay & Salevouris (1988)は、「ヒストリオグラフィー(historiography)」を「歴史記述の歴史(the history of historical writing)」と定義している。「歴史記述」、すなわち、「歴史を書く」という行為は、それ自体が既に必然的に選択的な行為である。この点に関する最も著名な議論の1つがヘイドン・ホワイトによる「メタヒストリー」であり(White, 1973)、それによれば、歴史家が出来事に物語の形式を付与して初めて、それらの出来事は歴史記述になるという。そのため、ポール・リクールが言うように、「ある歴史的な出来事を語る複数の物語が存在し、それらが対立する」(Ricœur, 2004)状況が生まれるというわけである。
「AとしてのB」というときには、たいていの場合、反対の、しかし二律背反ではない含意がある。すなわち、「AはBと似ている」と「AはBではない」という、相反する2つの意味である。言い換えれば、「A≒B」であるにもかかわらず(であるがゆえに)、けっして「A=B」ではありえず、あくまで「A≠B」にとどまるということである。この線に沿って、「ヒストリオグラファー(A)としてのアーティスト(B)」を考えてみたい。
先述した『メタヒストリー』の副題は「19世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力」である。この「想像力」という言葉は、ヒストリオグラファーとアーティストを結ぶ、重要な鍵概念であると考えている。というのも、アートは想像力を前提にして成立していると考えるからだ。これは、演劇や文学といった他の文化的営みについても同じことが言えるだろう。
僕の(拙い)理解では、スピノザは、情動と権力について考える中で、人々を恐怖によって操作し、希望を餌として与えることで、権力が生まれると分析している(『国家論』)。人間がいかに簡単に恐怖に突き動かされて集団的ヒステリーに陥るかということについては、関東大震災における朝鮮・中国の人々や社会主義者に対する虐殺を見れば明らかだ。私たちの想像力は、時代や権力の作り出した限定的な空間の中で制限されている。「大空を自由に羽ばたく」想像力という比喩は神話にすぎない。
このような拘束の中で、アートは想像力のオルタナティブなあり方を提示するためにきわめて有効な技法の1つではないか、というのが重要な主張の1つである。ある全体主義的な権力によって押し付けられた、あるいは、ある特殊な空間でのみ可能であるような想像力とは別の形の想像力がある、その可能性を指し示す技術ということだ。可能な想像力の形式が複数あり、しかもそれが、自らが「当たり前」であると思い込んでいるものとは異なる形式で存在するということは、しばしば恐怖と不快を与えるが、アートという経験はそのような状態に耐える訓練場となりうるかもしれない。
ある歴史上の出来事を解釈する複数の、しばしば対立する見方があるということを述べたが、「公式の」歴史を書くというプロセスは、他の様々な歴史を周縁化し抑圧することに他ならない。ベンヤミンを引くまでもなく、規範的な歴史の物語はしばしばマジョリティや権力者といった強者の視点から書かれてきた。アートは周縁化され、抑圧されてきた別の歴史を、ある特異な仕方で歴史の表舞台に引き戻す可能性を持つ。これがもう1つの主張である(あくまで個人的な主張であって、シンポジウム全体の主張ではない)。
ここにおいてアートの可能性はヒストリオグラファーのそれと交差する。カルロ・ギンズブルクはベンヤミンの「歴史の概念に関して」の中の「歴史をさかなでする」という表現を解釈して次のように述べる(Ginzburg, 1999)。「私たちは証拠をさかなでに、それを生産したものの意図に逆らって読むことを学ばなくてはならない」。
最後に、「A≠B」という視座から批判的な問題提起を行い、このイントロダクションを終わりたい。アート・プロジェクトを行うアーティストは必ずと言っていいほどリサーチを行う。リサーチ能力に優れたアーティストがたくさんいることは確かですが、専門家に比べればアマチュアの域を出ないとも言える。そこで、「どのように」リサーチによって集めた素材を見せるかということがアーティストにとって重要になる。すなわち、素材の加工である(これは歴史家も一緒であるが)。
アートは視覚や感覚に訴えることによって、新しい想像力や主体を立ち上げることができる(と考える)。かつて「エスノグラファーとしてのアーティスト」に対してなされたように、ヒストリオグラファー的なアプローチを採るアーティストに対して、そのリサーチの過程における瑕疵や不徹底を指摘することはできますが(そして、当然ながら、それが有効かつ必要な批判である場合もある)、より生産的な議論のためには、アート独自の方法で「歴史」というものにアプローチする、その方法を吟味し、議論することが大切であると考えている。正直なところ、そのはっきりとした答えはまだ見えていないというのが現状であるけれども、次回2月22日にアーツ千代田3331で開催するこのレクチャー・トークの続編では同じ世代を生きているアーティスト、キュレーター、研究者、その他さまざまな関心を持つ方々との対話の中でそれが浮かび上がってくることを期待している。
[次回イベント情報]
『ヒストリオグラファーとしてのアーティスト? : 記憶、忘却、物語』
日時:2017年2月22日 19:00 – 21:00
場所:アーツ千代田3331 メインギャラリー(千代田区外神田6-11-14)
モデレーター: 崔 敬華
登壇アーティスト: 藤井 光、山田健二、山本浩貴、横谷奈歩
入場料:500円
主催:nap gallery
ABOGによるSEAアーティストのドキュメンタリー・ビデオ
ソーシャリー・エンゲイジド・アートに取り組む米国のアーティストを支援するNPO、ア・ブレイド・オブ・グラス(ABOG)は、プロジェクトに対して資金援助するだけでなく、アーティストのコメントやプロジェクトの実施プロセスをビデオに収録し、“FIELDWORKS”という短編ドキュメンタリー・シリーズとして公開している。
その最新シリーズが12月、ウェブサイトに公開された。アパラチア山脈の炭鉱地帯の環境汚染問題に取り組むローラ・チップレイの《Appalachian Mountaintop Patrol》や、1881年にルイジアナ州で起こった米国史上最大の奴隷の叛乱を再現するドレッド・スコットのプロジェクト《Slave Rebellion Reenactment》などが含まれていて興味深いが、なかでもぜひ見てほしいのが、本サイトの「プロジェクト紹介」でも取り上げたスザンヌ・レイシーの《あなた自身の手で》だ。レイプやDV問題の解決のために、男性に積極的に参加を求めたプロジェクトで、男性を対象とした「男らしさと暴力」についてのワークショップやエクアドルの闘牛場でのパフォーマンスの一部を垣間見ることができる(スペイン語に対しては英語字幕が付いている)。
(秋葉美知子)
クリエイティブ・プレイスメイキングを支援するArtPlace
「クリエイティブ・プレイスメイキング」は、2010年に経済学者アン・マークセンとアート・コンサルタントのアン・ガドワが作り出した言葉だが、最近のまちづくりのキーワードになっているようだ。ごく簡単に言えば、芸術文化を計画のコアに置いた、地域コミュニティの総合開発のことである。
全米各地のコミュニティで試みられるクリエイティブ・プレイスメイキングに潤沢な助成をしているプログラムがある。ArtPlace America(通称ArtPlace)による「National Creative Placemaking Fund」がそれだ。全米芸術基金(NEA)の元議長ロッコ・ランデスマンの発案により、NEAや住宅都市開発省をはじめとする連邦政府機関と著名な民間財団、さにら大手金融機関のコラボレーションによって2011年に創設され、これまで256のプロジェクトに7,770万ドルの投資をしている(grant ではなくinvestmentという言葉が使われている)。1件当たり平均30万ドル。競争率は非常に高く、2016年度では、応募1,400件に対し、採択はわずか29件だった。
芸術文化をコアに置いているとはいえ、クリエイティブ・プレイスメイキングの主目的は経済的な地域活性化で、市街地を舞台に、ジェントリフィケーションの後押しをしているケースも多いだろうと私は思っているのだが、先日発表された2016年度の採択事例を見ると、大都市ではない地方のプロジェクトが3割を占め、都市型でも地域住民の日常生活に関わる問題に取り組むプロジェクトが含まれている。「プレイスメイキング」でくくられる活動は、地域的にも内容的にも広がっているようだ。
なかでも目を引いたのは、ノースキャロライナ州シャーロットのMcColl Center for Art + Innovationが、高層住宅やオフィスビル開発計画の進むノース・トライオン・エリアの中にあるホームレス支援施設の移転問題に関連して、シャーロット市や関係組織とともに取り組むプロジェクト「二都物語(A Tale of Two Cities)」だ。私は以前このアートセンターを訪問したことがあるのだが、1926年に建てられたゴシック・リバイバル様式の元教会を改装して1999年にオープンした施設で、アーティスト・イン・レジデンスを中心に、展覧会、ワークショップなどを通して、現代アートと地域コミュニティを結び付ける活動を行っている。今回のプロジェクトは、ジェントリフィケーションとホームレスという、多くの都市で問題になっている衝突に、アートが創造的に介入することによってどのような展望が生まれるのか、非常に興味深い。
(秋葉美知子)
選挙とアート
史上最悪の泥仕合と評された先日の米国大統領選挙。これだけ激しい選挙戦が繰り広げられたからには有権者の投票率も高かっただろうと思うが、意外にそれほどでもなく、57.6%だったという(United States Elections Projectの推計による )。米国では18歳以上の米国籍者すべてに選挙権があるが、本人が自己申告で選挙人登録をしなければ実際に投票することはできない。そして有権者の23%がさまざまな理由で選挙人登録をしていない。「選挙に行こう」というキャンペーンやサポートの重要性は日本だけではないのだ。
アメリカのアーティストやアート組織は日本に比べてはるかにポリティカルな活動に積極的だが、今回の大統領選挙と連邦議会選挙においても、市民の政治参加を促進するためのさまざまな活動を全米各地で行っていた。(参考記事:Animating Democracy November 2016 E-News)
フィラデルフィアのパブリック・アート・プロジェクト「Next Stop: Democracy!」は、投票所の場所が分かりにくく、サインも目立たないことが投票率に影響しているとして、60人のアーティストに“Vote Here/Vote Aqui”と英語とスペイン語で書いた大型看板の制作を依頼、投票所の前に掲げた。カリフォルニア州では、コーナーストーン・シアター・カンパニーやイエルバ・ブエナ・アート・センターなど4つのアート組織が自分たちの建物を投票所として提供。ノースキャロライナ州ウィンストン・セーラムでは、アーツカウンシルが野外パーティを開いて、若者に選挙人登録を呼びかけた。
「米国芸術文化省(USDAC)」と名乗るアーティストや文化関係者たちの草の根アクション・ネットワークは、特定の候補者のために選挙資金を集めて支援活動を行う団体「スーパーPAC(Political Action Committee)」をもじった「USDAC スーパー P・A・C(Participatory Arts Coalition)」というプロジェクトを立ち上げ、市民レベルで民主主義を実践するさまざまな参加型イベントの事例とハウツーを紹介している。たとえば、芝生の前庭に、支持する候補者の名前ではなく自分の信じる価値観(Respect、Effort、Loveなど)を書いたサインを立てる“Lawncare”、夜の公道を使って映画上映とディスカッションを行う“Pop-Up Screening”、メキシコの伝統的切り絵の手法でメッセージを表現する“Papel Picado Now”、大型の木箱で作った可動式ステージの上で、誰でも即席の演説ができる“Make America Crate”(トランプの“Make America Great”のもじり?)などなど。こういった9のアイディアが、ダウンロードできるツールキットにまとめられ、誰でもどこでも自由に再現、応用できるようになっている。
(秋葉美知子)
英国アーツカウンシルは、芸術文化のクオリティを数値で評価しようとしている
「ソーシャリー・エンゲイジド・アートの芸術的クオリティは誰が評価すべきか?」という問いに、ポートランド州立大学のハレル・フレッチャー教授は次のように答えてくれた。「私は第一に、参加者とそのプロジェクトに直接関係している人たちの見方を大切にしている。もちろん、より広いアートワールドから関心を得ることはよいことだし、ファンドレイジングなどの役に立つだろうが、トラディショナルな美術評論には私はあまり関心がない。それよりも、私と共に活動してきた人々が、ともに作り上げたアートワークに満足することのほうが大切だ。そこには、ミュージアム・コンテクストではない美学があるはずだ」
アートのクオリティをどのように評価するかは、長年議論されてきた課題だ。成果主義のイギリスでは、ブレア政権期には芸術文化に対する公的支援のよりどころとして、いかに教育や社会正義に貢献したかが問われ、その後、“卓越性(エクセレンス)”が重視されるようになり、その評価は見識ある専門家に委ねられた。さらに今、英国アーツカウンシル(ACE)は、観客の見方も含めて、アートのクオリティを数値で評価する手法(コンピュータ-・ソフト)を開発。ACEから年間25万ポンド(約3,200万円)以上の補助金を受給しているメジャーな芸術文化組織(National Portfolio OrganisationsとMajor Partner Museums)に対して、“Quality Metrics”と名付けたこの評価手法の活用を義務化しようとしている。演劇や音楽の公演や美術館の展覧会などの個々のプロダクションについて、12の評価項目を設定。観客評価、同業者の相互評価(peer review)、自己評価の3種をデジタルプラットフォームで実施し、比較分析するというものだ。
その評価項目は、
①コンセプト:面白いアイディアだった
②プレゼンテーション:うまく作られ、発表されていた
③独自性:これまでに経験したことのないものだった
④挑戦:示唆に富む(刺激的な)ものだった
⑤魅了:興味を引かれ、夢中になった
⑥感激:このようなものにもう一度来たい
⑦地域的インパクト:ここでそれが起こっていることが重要だ
⑧関連性(relevance):私たちが生きている世界に関係している
⑨厳密性(rigour):じっくり考え、しっかりまとめられている
※以下はpeer reviewと自己評価のみの項目
⑩オリジナリティ:革新的だった
⑪冒険(risk):アーティスト/キュレーターは明らかに挑戦していた
⑫卓越性:これまで見た中で最も優れた事例の一つだ
これらのステートメントに対し、回答者は、タブレット・パソコン上の「非常にそう思う」から「全くそう思わない」までのスケールに、スライドバーで入力する。一般的な五択アンケートではないので、微妙なさじ加減が可能だ。集まったデータは瞬時に集計され、フィードバックされる。
IT時代のこの数量評価が報道されるや、批判や懸念、「そんな馬鹿な」「冗談でしょ」といったコメントがネット上にあふれた。そもそも芸術的クオリティを計測できるのか、ということから、オーウェル流の監視システムだ、成績表をつくって補助金支給の判断基準にするのではないか、こんな質問では包括的すぎて意味がない、同業者間の相互評価といってもお互いに結託して褒め合いに終始するのではないか……目的から手法まで、さまざまな疑問が出ている。ともかく来年4月からの導入結果に注目したい。
参考記事:
http://www.artsprofessional.co.uk/news/arts-council-impose-quantitative-measures-arts-quality
https://www.theguardian.com/culture/2016/oct/04/quality-metrics-arts-council-england-funding
(秋葉美知子)
Giving USAとNCARレポートにみる米国の芸術文化団体のファンドレイジング事情
寄付大国アメリカでは、多くのNPOが民間から多額の寄付を得ながら、多様な社会的ニーズに応えるサービスを提供している。全米の寄付総額は、Giving USA財団が毎年発行している寄付白書『Giving USA』で知ることができる。今年度版によると、2015年の寄付総額は史上最高の3,732億ドル(約38兆円)を記録したという。そのうち個人寄付が71%を占める。寄付先の内訳は、宗教関係が32%と最も大きく、次いで教育関係15%、ヒューマン・サービス11%、助成財団への寄付11%、健康関連8%、公益事業7%。芸術文化は5%で、寄付者にとっての優先順位は決して高くないと言えそうだ。
米国の芸術文化団体は、寄付や助成金と事業収入、資産運用などで経費をまかなっているが、そのファンドレイジング実態を南メソジスト大学のNational Center for Arts Research (NCAR)が調査している。9月にリリースされた『NCAR Fundraising Report』によると、対象とした約4,200団体では、平均して支出全体の約57%が使途を限定しない寄付金収入でまかなわれていた(2014年データ)。活動分野によってその割合に差があり、コミュニティ団体が71%と最も高いが、11分野中7分野で50%を超えている。また、総運営費のうちどのくらいの割合がアーティストやプログラム制作スタッフの人件費に支出されているかのデータもあり、ボウモル・ボウエンの理論どおり、オーケストラ(59%)やオペラ(55%)が最も労働集約的になっている。その他にも、このレポートには、日本のアーツマネジメント関係者や研究者に役立つ、興味深い調査分析が掲載されている。
(秋葉美知子)
「クリエイティブ・ピープル・アンド・プレイセス」事業にスザンヌ・レイシーも参加
英国の地域住民のアーツ参加率調査で、355自治体中下から15番目だったブラックバーンwithダーウェン、20番目のバーンリー、27番目のハインドバーン地区、62番目のペンドル地区は、イングランド北西部のペナイン・ランカシャー地域として、前投稿で紹介した「クリエイティブ・ピープル・アンド・プレイセス」事業の助成を受け、「スーパー・スロー・ウェイ」という共同事業体を創設し、さまざまなプロジェクトを実施している。「スーパー・スロー・ウェイは、ペナイン・ランカシャーにおける創造的レボリューションの火付け役となることを目指している。我々は、リーズ・リバプール運河沿いのコミュニティとともに、人々を地元の、英国内の、そして世界のアーティストと結びつけ、コラボレーションや新しいアイディアの探求、そして革新的手法による実験を可能にするプロジェクトを実施している」というマニフェストのもと、フェスティバルの開催、各地でのアーティスト・イン・レジデンス、リーズ・リバプール運河完成200年記念合唱曲の創作・公演、社会包摂や介護・福祉活動へのアーティスト参加など、その活動は多岐にわたっている。
そのひとつが、米国カリフォルニアを拠点とする、SEAの先駆者的アーティスト、スザンヌ・レイシーによるコミュニティ参加型プロジェクト《Shapes of Water, Sounds of Hope》だ。
19世紀半ばから1960年代まで、ペンドル地区では、綿紡織工場が経済活動の中心にあり、中東からの移民労働者を含む多様なバックグラウンドを持つ人々が働き、集う場だったが、2006年にブライヤーフィールドの工場が閉鎖されて、そういった交流の場がなくなり、地域のまとまりもなくなってしまった。
今年2月から始まったレイシーのプロジェクトは、コミュニティの歴史を振り返り、現在を見つめ、未来を展望するきっかけとして、廃工場の広々とした空間を舞台に住民参加のアート・イベントを作り上げようというもの。手段としたのが歌だった。かつての工場労働者やその家族はじめ地域の人々を招いたミーティングを重ねるとともに、ランカシャーに起源を持ちアメリカのアパラチア地方でも行われていた「シェイプ・ノート」という合唱法とイスラムの「スーフィー・チャンティンング」という詠唱法のレッスン、セッションを行い、10月1日、廃工場の一階フロアに500人を集めたヴォーカル・パフォーマンス&晩餐会でクライマックスを迎えた。このいかにもレイシーらしいスケールの大きなパフォーマンスに加えて、地域住民50人へのインタビュー収録も行われ、今後映画作品にまとめられるという。
「私は、文化を共有することですべての問題を克服できるなどと単純に考えてはいません」とレイシーは言う。「しかし、この経済的、社会的状況のもとで、地域の未来のために、社会的結束や市民参加を推進している人たちがいます。そして彼らの多くは、このプロジェクトを、現在進行中の自分たちの努力を補助的にサポートするものと受け止めていると思います」。これは、レイシーが手掛ける多くの地域プロジェクトに共通するポイントだろう。
参考記事:Suzanne Lacy’s Pioneering Community Art Project in England (BLOUIN ARTINFO)
パフォーマンスの様子:Super Slow WayのFacebook参照
(秋葉美知子)
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